とても喜ばしいことですが、潜伏キリシタン関連遺産は12もの資産で構成されていて、
いったい、何にどのような価値があるのか知らない方も多いのではないでしょうか。
私もその一人で、「潜伏キリシタン」という言葉は知っているし、意味も何と無くは分かります。
しかし、それに関連する資産がどのようなものなのかについては、ほとんど知りませんし出てくる漢字の読み方も分かりません。
色々気になった事を調べて見ましたのでご紹介します。
《長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産は下記の12の資産で構成されています》
1.南島原市 【原城跡】Minamishimabarashi 【Harajyo ato】
2.平戸市 【平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)】
Hiradoshi 【Hirado no Seichi to Shuraku (Kasugashuraku to Yasumandake)】
3.平戸市 【平戸の聖地と集落(中江ノ島)】
Hiradoshi 【Hirado no Seichi to Shuraku (Nakaenoshima)】
4.熊本県天草市 【天草の崎津集落】
Kumamotoken Amakusashi 【Amakusa no Sakitsushuraku】
5.長崎市外海 【外海の出津集落】
Nagasakishi Sotome 【Sotome no Shitsushuraku】
6.長崎市外海 【外海の大野集落】
Nagasakishi Sotome 【Sotome no Onoshuraku】
7.佐世保市黒島 【黒島の集落】
Saseboshi Kuroshima 【Kuroshima no Shuraku】
8.小値賀町 【野崎島の集落跡】
Ojikacho 【Nozakijima no Shurakuato】
9.新上五島町 【頭ヶ島の集落】
Shinkamigotocho 【Kashiragashima no Shuraku】
10.五島市久賀島 【久賀島の集落】
Gotoshi Hisakajima 【Hisakajima no Shuraku】
11.五島市奈留島 【奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)】
Gotoshi Narushima 【Narushima no Egamishuraku (Egamitenshudo to sonoshuhen)】
12.長崎市 【大浦天主堂】
Nagasakishi 【Ouratenshudo】
これら12の資産は、九州の長崎県と熊本県天草市にあります。
《潜伏キリシタンに関する主な歴史的出来事》
1549年 日本にキリスト教が伝来1587年 バテレン追放令(禁教令)
1596年 サン=フェリペ号事件
1597年 日本二十六聖人殉教
1614年 徳川幕府が全国に禁教令
1622年 元和(Genna)の大殉教
1637年 島原の乱 (島原・天草一揆)
1797年 外海から五島へ移住を開始
1864年 大浦天主堂が竣工
1865年 信徒発見
1873年 禁教高札撤廃
1549年、イエズス会の宣教師でスペイン人のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に着き、日本に初めてキリスト教を伝えました。
豊臣秀吉は、元々は織田信長と同じくキリスト教の布教には寛容だったそうです。
しかし、キリシタン大名と宣教師の結びつきが強くなり、(キリシタン大名の)大村純忠は長崎をイエズス会に寄進してしまいます。
このようなことが行われたため、秀吉は宣教師を国外へ追放することにしたのです。これが1587年のバテレン追放令にあたります。
とはいっても、個人で信じるのは構わないとします。
また、宣教師が仲介する南蛮貿易の利益を無視できずに徹底されなかったようで、わりと緩めの禁教令でした。
1596年、土佐にスペイン船 サン=フェリペ号が漂着。
その船の乗組員から「日本にいる宣教師はこの国を占領するために来ているんだ」という話が秀吉に伝わり激怒します。
そして再び禁教令を出し、フランシスコ会などの教徒を捕らえ、長崎に連行してはりつけにしたのです。
これが日本二十六聖人殉教です。(*殉教とは、自らの信仰のために命を失ったとみなされる死のこと)
1612年~1614年、江戸幕府は、まず直轄地と直属の家臣に対してキリスト教の信仰を禁じ、続いて日本全国へ禁教令を広めていきます。
1622年、日本のキリシタン迫害の歴史の中でも最も多くの信者55人が同時に火刑と斬首によって処刑されるという事件が長崎で起こります。
注)内容には諸説あるようで、年代も記事によって1年違っているような出来事もありましたので、その辺はご了承願います。
この辺り以降の出来事が登録された12の構成資産と関わって来ます。
それでは一つずつ内容を確認していきたいと思います。
《それぞれの資産について》
1.【原城跡】
キリシタンが何をきっかけとして「潜伏」することになったのかを示す構成資産です。原城は1598年から1604年にかけてキリシタン大名 有馬氏が築いた城です。
その後 有馬氏に代わって領主となった松倉氏が新たに城を築いたため、1618年に原城は使われなくなりました。
江戸幕府が禁教政策を進める中、1637年に松倉氏の厳しい統治と飢きんをきっかけとして「島原の乱(島原・天草一揆)」が起こります。
この一揆は日本の歴史上最大規模の一揆であり、天草四郎を総大将として島原半島南部と天草地方の百姓らキリシタン総勢3万7000人がこの原城跡に立てこもったとされます。
幕府軍は12万人を超す兵力で一揆勢を攻撃し、4ヶ月に及ぶ攻防の末、一揆勢はほぼ全員が殺されることとなりました。
原城跡は、この島原の乱の主戦場跡であり、この出来事によってキリシタンは潜伏することを余儀なくされたのですね。
2.【平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)】
2.~6.は 禁教期に何を拝んで信仰を実践していたのかを示す構成資産です。潜伏キリシタンが、キリスト教が伝わる以前から信仰された山(安満岳)や、キリシタンが殉教した島(中江ノ島)を拝むことによって信仰を実践した集落です。
3.【平戸の聖地と集落(中江ノ島)】
禁教初期にキリシタンの処刑が行われた場所です。この島を殉教地として拝み、聖水を汲む行事を行う場としました。
4.【天草の崎津集落】
身近なものを信心具として代用することによって信仰を実践した集落。生業や生活に根差した漁村特有の信仰に価値があるとされ、アワビの貝殻の内側の模様を聖母マリアに見立てたり、
古鏡、古銭を信心具としていたそうです。
5.【外海の出津集落】
キリスト教由来の聖画像を密かに拝むことによって信仰を実践した集落。6.【外海の大野集落】
神社に密かに祀った自らの信仰対象を拝むことによって信仰を実践した集落。7.【黒島の集落】
7.~10.はどのような場所を選んで共同体を維持したのかを示す構成資産です。平戸藩の牧場跡の再開発地に開拓移住することによって共同体を維持した集落。
8.【野崎島の集落跡】
神道の聖地であった島に開拓移住することによって共同体を維持した集落。9.【頭ヶ島の集落】
病人の医療地として使われていた島に開拓移住することによって共同体を維持した集落。10.【久賀島の集落】
五島藩の政策に従って島の未開拓地に開拓移住することによって共同体を維持した集落。11.【奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)】
潜伏の終焉を示す構成資産です。禁教期に移住によって集落が形成され、解禁後に「潜伏」が終わったことを可視的に示す教会堂
12.【大浦天主堂】
「潜伏」が何をきっかけに終わったのかを示す構成資産です。宣教師との接触という「潜伏」が終わるきっかけとなる「信徒発見」の場所。
プティジャン神父を訪ねてきた人々が、自分たちは信者だと告白したのです。
表向きは存在しないとされたキリシタンが、幕末に来日した宣教師と接触し、自分たちがキリシタンであることを表明します。
そうしたことによって最後の弾圧が行われましたが、それに対し海外からの講義が殺到したため、明治政府は禁教の高札を撤廃しました。
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